山崎政穂教話集 第一集 神様がお嫌いになるところの自己中心

神様がお嫌いになるところの自己中心

 どなたもよくご参拝になりました。
 月の初めの報徳祭を仕えさせて頂いたのでございます。

 近頃よく思わせて頂きますのは、
 『信心して神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ』
との、教祖の神が天地の親神様から頂いておられるみ教えであります。お互いが、それぞれ生まれたときから定めというものを持って生まれてきている。その中で一年まさり代まさりのおかげが受けられると仰せになっておられる。いわば、運命の転換の軌跡と申しますか、運命の転換の道筋を考えさせて頂くわけでございます。
 また親神様は、
「真一心に縋れば、ない命も助けてやる」
とも仰せになっておられる。

 よく縁談のことでお願いに来られる。そこを通しての神様の思し召しというものがあるわけでございますから、それはそれでよろしい。運命が大きく変わっていくという中に、一つ縁談というものがございます。これは非常に大きく変わる。そこでやり損なうと大変なことになってきますが、自分が今までによい生き方をしておりませんと、やはりいい縁というものもないのではないか。縁を頂くというその前の日があるのでございます。学校の入学試験と同じでございます。試験の前日、あるいは当日にお願いせんより、した方がよろしいに決まっていますが、その前の努力というものがあらねば、その試験というものが都合よくいかない。もっと前に、育てる方がけが過ちのないように育ててくだされなければ、今日の日というものが、縁を迎える今日の日、あるいは入学試験を受ける今日の日というものがないわけであります。そうしますと、運命の転換というものは、ずっと生まれてきたときから続いているのであります。その道筋において一つ一つおかげを受けていかなければならない。
 親神様は、
『前々のめぐり合わせで難を受けおる。今般、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁昌いたすこと』
『世間になんぼうも難儀な氏子あり取次助けてやってくれ』
と金光大神に頼まれておられる。その神の願いというものは、縁談というようなところには大きく働いてくるのではないか。その縁談がその人にとってよりよい縁であるように、そこには神の愛というものが大きく働いておられると思うのでございます。
 これは一昨日、お聞きしたのでございます。ある方がタクシーとの事故で頭にけがをされた。そこで、私思いましたのは、その方が中学の三年のときに、今から二十五年か六年前のことでございますが、脳炎に罹られた。親御さんが信心をされておりまして、医者も後遺症のことを非常に心配されたのですが、何の後遺症もなく高校も終え縁付くこともでき子どもさんも頂かれ、二十五、六年になるはずでございます。今度のけがで、医者がこれは後遺症が出ると、頭の後遺症は困るのでございますが、どのような後遺症になるのか、まだわかりませんけれども大変なけがのようでございます。
 その方は、二十五、六年前に頭がどうかなるかもしれないところの病気をおかげ受けた。その後何と申したらよろしゅうございますか、やはり神有り難しの一念があらねばならなかったと思うのでございますが、教会から近いのでございますが、参拝もあまりなさらない。全然なさらないのではございませんが、ほとんどなさらない。そして二十五、六年してそのようなけがになってきた。どうも神様は二十五、六年待ってくだされたような気がする。本人が気づくのを待たれたような気がする。
 これは人事ではなしに私自身、自戒の、自らを戒めるところの中身として聞かして頂いたのです。教祖の神はおかげを受けたとき、
『辛かったことと、今おかげを受けて有り難いことと、その二つを忘れなよう。その二つを忘れさえせにゃ、その方の病気は二度と起こらぬ』
と仰せになっておられる。初めは脳炎でございましたが、今度は頭のけが、中身は同じですね。神様は運命を変えようとなさった。変えてやろうとなさった。けれども自分が応えなかった。それでも神様は二十五年、六年お待ちになった。有り難いと言えば有り難いが、本人や家族の方はどうしてこういう災難に遭ったであろうかと思われるに違いない。信心のそういうところは十年、二十年の経験ではわからないところがあります。まだ私にもわからないところがたくさんございますけれども、年を取るということは、大変有り難いところがありまして、理屈なしに、ずっと人生の五十年、六十年というものを見ることができる。自らわかるところがある。七十五歳という年を頂きまして、二十代に命はないと言われておりながらおかげを受けて今日までこさせて頂きまして、自分自身その方の病気の全快をお取次し、一つ一つのその人その人の今日までの道筋というものを思わせて頂くときに初めて、自ら神様の願い、神様の思いというものをわからせて頂くことができる。

 このお話は、肥前基山の先生がよくしてくださったのでございます。
 ある方があることをお願いされたときに、一年位でございましたか、二年位でございましたか、今記憶にございませんが、「親の命がない」と私お取次させて頂いたそうでございます。ところが、親は母親でございますが元気で、母親の命が亡くなると思いもよらないけれども、そう聞いて教会に参拝を始められた。親の無事安泰を願われた。そして一年半ほど経ちまして、本人が脳出血のために倒れ、医者は命がないだろうと言われたが、命を取り止められまして、今は元気でおられます。
 これは私、一つの真の上における試験と受け取ったのでございますね。親の病気である。親の大難である。一年先には親の命はないぞ。大事にしなければ命がないぞと言われて、その親のお願いをしていった。そのことを聞いてもお願いもしない。親の無事安泰をお願いもしない。その位の子どもの真でありますならば、親神様はその子の大難のときに命をくださらなかったであろう。親の大難と聞いて一心にお縋りしていく。そこに神様が、助け甲斐があると思われたに違いない。お互いがおかげを受けさせて頂きまして、受けさせ甲斐があると、神様から思われるところの生き方であらねばならない。自分がおかげを受けたらそれで終わりというようなことではいけない。世間には難儀な人があるわけでございますから、やはり人を助けようと思わなければならない。それが真ですね。その方のことを思うときにしみじみ思うのでございます。
 教祖の神が、
『一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ』
と仰せになっておられる。それは、縁談でいうならば、その日に絞ったのではいけない、いい縁がこなければいけませんわけですから、いい自分にならなければ、やはりご神慮に添うところの何かがあらねば、運命の転換というものはありえない。神様がしてくださらない。『真一心をもって』と仰せになっておられるところをよく考えてまいりたいと思うのでございます。

 前回でございますか、前々回でございますか、稲の品種改良の話をいたしましたが、明治の終わりに、東北の阿部亀二とおっしゃる方が冷害のときに、冷害でありながら立派に実っている何本かの稲を見つけられ、それを種籾といたしまして、それが今日のササニシキとコシヒカリの一番初めの種になっているのでございます。冷害という難の中にそういう品種を見つけることができた。稲熱病(いもちびょう)という病虫害の中に稲熱病に強い品種を見つけ出すことができた。日照りのときに日照りに強い品種を見つけることができた。そして、試験場で改良されまして、今日のササニシキ、コシヒカリ、日本晴れ等の品種ができあがったのでございます。もちろん、天地のお恵みあっての稲でございますが、そのままでは冷害のとき、日照りのとき、大風のとき、稲熱病の流行るときにはできない。それを、そういういずれのときにも収穫ができるように努力をされまして、今日の稲があるのでございます。天地のお恵みあっての稲ではございますが、天地のお恵みをお恵みたらしめるところの努力というものを、心ある方々が(これは試験場の方ですね。そして最初は何人かの人たちが、高橋という人あるいは安部という人たちが)、それぞれの大難の中にそれを乗り越えていくところの品種を見つけられたのでございます。天地があっての稲でございますけれども、冷害等いろいろな大難の中に、なおおかげを受けられるようにされた。天地のお働きに対する補完的な、補い全うする補完的な努力をされた。
 同じように、天地の親神様が、
『前々のめぐり合わせで難を受けおる』
『世間になんぼうも難儀な氏子あり取次助けてやってくれ』
と金光大神にお頼みになられた。そこに、今日の金光教があるのでございますが、その金光大神御取次の働きができるようには、やはり信心させて頂くものが信心を後々に伝えていかなければ、神の願い成就のために金光大神御取次成就のために、ちょうど稲の品種を改良して行かれた方たちがあったように、お互いが信心を伝えていかなければならない。
 信心は年がいきまして死に際にすればよろしいというふうに思っている人もありますが、それでは間に合いません。第一気力が違う。真に対するところの気力が違う。私、自分自身で年齢的にずっと考えてまいりまして非常に気が弱くなっている。例えば、縁談のことで「この縁談はいけない。この縁談をまとめれば、遺伝的に、子どもにこういう遺伝が出ますぞ」とそこまでは言えますけれど、それをなお押して「その縁談はいけないから止めなさい」とは言えない。気力がない。やはり信心は若いときでございまして、お手引きも若いときでございます。それが、ご神慮に添うことであり、神の願い成就のお役に立つことでございます。その徳がお互いの運命の転換の軌跡の上に現れてくる。自分だけおかげを受ければよろしいというようなことでは、『一年まさり代まさり』というようなことにはならないと私は思う。その二十五、六年前に脳炎に罹って、一昨日ですが自動車事故で頭にけがをされた。これも大変考えさせられます。神様はその間待ってくださるが、いつまでもお待ちにならないかもしれないということを、お互いが知っておかなければなりません。
 『神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと』