教話集 第一集 親神様の前に筋を通しているところのものは何か

親神様の前に筋を通しているところのものは何か

 どなたもよくご参拝になりました。
 昭和六十一年一月の報徳の月次祭を仕えさせて頂いたのでございます。まことに有り難うございました。

 本日は、昨日から雪になりまして、昔は『雪は豊年の貢ぎ物』と言われまして、農村では大変有り難いと、寒いというよりも有り難いという受け方をしていたのでございます。
 寒が締まりますと、稲作の大敵である螟虫(めいちゅう)が死に、また、地下水の関係でその夏は干ばつがない。干ばつと害虫の害がないということは、稲作にとりまして昔は大変な強みであったのでございます。今は農薬ができました。ダムができました。水の問題と害虫の問題をそこで補完していくのでございます。
 雪が降りますと、有り難いと思う心と、今日は道が悪い、車で行くのに難渋する、あるいは寒い、いろいろと受け取り方の違いはあろうかと思うのであります。けれどもお互いが、科学がどうの人間がどうのと申しましても、天地のお恵みがあって命を頂き、天地のみ徳に生かされて生きているのですから、有り難いと思わせて頂く方向にお互いの心を持って行かなければならない。
 本年になりまして、登山の犠牲者が十人を超えている。山に登らせて頂いただけで、
「山を征服した」
と、大それた言葉を本人が使われているのではなしに、マスコミがそういう言葉を使う。山にただ登らせて頂いただけですね。山にとっては痛いことも明朝かゆ痒いこともない。山にただ登らせて頂いただけで山を征服したというようなおごった考え方が、その人の人生観のもとをなし、そこに人間の悲劇が起こってくる。
 天地に対して、もっともっと敬虔(けいけん)な心を持たなければならないと思わせて頂くのでございます。

一月二日の西日本新聞の投書欄に面白い記事がございました。
 投書なさった方はご婦人の方でございます。その方が仲人をいたしまして、男の方が、お見合いの席に遅れて来られた。汗をふきふき。ですから夏のことでございましょう。男の方が、頭を下げたときに、はからずもオナラをされまして、その縁が崩れた。
 その続きに、落語の話が投書されておりました。お坊さんの体の調子が悪い。これはお坊さんでなくてもどなたでもいいわけです。体の調子が悪いからお医者さんの診察をお願いしまして、お医者さんは、最初に顔色を見たり脈をとったり、それから体の状況をお聞きになる。昔のことでございますから、漢方医でございましょうか。
「ときに和尚さん、テンシキはございますか」
「あります」
と言ってちょっと中座され、小僧さんを呼び、
「隣に行ってテンシキを借りて来い」
隣が八百屋で、小僧さんが八百屋に行きましたところが、
「今朝売り切れてしまった」
その隣に行きますと、
「今朝食うてしまった」
そういう次第で、小僧さんはどこにもないのでお医者さんに、
「テンシキというのは何でございましょうか」
「オナラのことです」
ガスが出るかとお医者さんはお聞きになったわけですね。胃腸の調子を考えられたのでございましょうか。
 その記事を読みまして、隣の八百屋さんが売り切れた。その隣では今朝食うてしまった。落語でもこの位人を笑わせますと、健康にすこぶるよろしいのでございますね。笑うと胃腸の血のめぐりが良くなります。しかし、喜ぶ、笑うというものにもいろいろございますね。人を嘲(あざけ)って笑う。そういうのではなしに、愉快で笑う、楽しくって笑う、そういう笑いというものは、本当に健康のもとになるものでございます。昔から『笑う門には福来たる』と言われている。
 その反対に不足というようなことは、あるいは腹を立てるというようなことは、血が濁ると言われている。消化器系統にはてき面に悪いですね。てき面に悪い。病人でも不足のない人は治りが早い。不足を持っていると治りが遅い、あるいは治らない。でございますから、不足を持たないように、腹を立てないようにしなければいけませんが、やはり自分がおかげを受けなければ不足はなくならない。
 今日の天気は悪いと天地に対して不足を言う。これは、ある意味からいうと大変なご無礼であろうかと思うのでございます。
 あるいは人に対して不足を持つ、あるいは子どもが親に不足を持つ、あるいは夫が妻に不足を持つ、あるいは妻が夫に不足を持つ。途中で思い変えればよろしいですが、思い変えない限りにおきましては、皆さんもご承知のようにそれは悲劇しか待っておらない。
 人にはそれぞれ立場というものがあり、それぞれの立場におきまして動いているのでございますから、相手を理解しなければ人に対する不足というものはなくならない。また、自分の立場も理解してもらわなければ人に こり をつませる場合がある。
 病気になりまして、人がよくしてくだされば嬉しいが、よくしてくださらないと不足に思うあるいは腹を立てる。自分が動けるように病気が早く治るように、おかげを受けなければならないのでございます。人に迷惑をかけて相済まんというものが先に起きてきまして、その不足のもとのところを親神様にお願いしておかげを受けていかなければならない。けれども、おかげを受けなければならないということは考えずに、不足ばかり持っているという場合が多いのではないかと思うのでございます。
 不足を持ってもどうにもならない。例えば、自分の定めに不足を持つ。体も健康であるがよろしい。あるいは、理想的な家庭に生まれてきた方がよろしい。けれども、それぞれの定めのもとに、そういう立場にお互いが生ましめられてきている。今与えられている立場しか見ていませんが、自分の前々はどうであったか。自分なりの精一杯のおかげのところに、親神様は命をくだされたと思うのでございます。そういう理解をしませんと、親に対しても不足が起こる、社会に対しても不足が起こる、反社会的な行動をとっていくようになってくる。
 教祖の神は、
『信心しておかげを受けよ』
と仰せになる。
 その場合に、お互いが真一心の信心をしているのか、実意をもって願っているのか。自分自身の信心を見る上の参考に、社会通念的な権利と義務という問題がございます。権利だけを主張していないか、義務の方はどうなっているのか。親神様を前にしての願いというものが、実意、真ではなしに利己的なものではないか。
 進学のお願いには、この実意、真があるかないかということが特に問題になってくる。自分自身の栄達のために試験が通りますようにと願う人が多い。通った方がよろしい。けれども、なぜ通らなければならないかというところに、お互いが実意、真を持っておらねばならぬ。大きくは人類、国家社会、身の回りから言えば親にも安心して頂く、家のためにもというものがあらねばならない。一流の大学を出て、自分自身は相当な社会的地位に就きながら、親のことは一つも考えない人がいるのでございます。世間にですね。皆様にではございません。それは実意、真というものが、その人の人生観の根底に、底のところにない。
 権利と義務のバランスがよくとれておかなくてはなりません。会社で昇給する、しない、賃金がどうのこうのといった場合に、では、自分の働きはどうなっているのであろうか。おかげの問題をどうこう言う前に、自分の実意はどうなっているのか。自分の願いの上で、親神様の前に筋を通しているところのものは何か。利己的なものではないか。そういう反省がいる。
 同じように、会社に勤めておりましても、あるいは事業にいたしましても、人から負けてはならないという競争心は持たなければならないが、一方で人間同士の協調心というものもまた持たなければならない。どの部分は競争してよろしい、どの部分は協調しなくてはならない、つまりお互いが調子を合わせていくのですね。協調精神があらねばならない。
 甘木の初代が、
『信心と働きとが車の両輪のように揃っていかなければならない』
と教えておられる。
 朝から晩まで教会に参って来てそれで済むものではない。それが働きの上にはどうなっていっているのか。では、忙しいからといって働いて、働くことばかり考えていて、み教えの『身代と健康と人間』とこの三つが揃うていけばよろしいが、例えば、身代が増えて徳が増えないということになると、自分の健康あるいは命、または人間つまり子孫のところに何らかのひびがくる。食べ物でもバランスがとれておかなければいけないですね。好きだからといって一つのものだけではいけない。

 これは、十年以上前のある方の夢でございます。夢の中でお広前に座っている自分の手のひらを見ると籾殻(もみがら)だけが入っている。本人は親神様から籾殻を頂いていると受けられたのですが、自分は籾殻だけしか頂けないのであろうかと情けない思いがした、という夢でございます。ところがその言葉どおりに二年、三年思っておりましたが、あるときふと思いました。それは写真で見ますと、一瞬の状況を捉えたところのものですね。「神様から籾殻を頂いたところを写しているのか」それとも「自分が籾殻を神様にお供えしているところを写しているのか」、それはわからない。その写真だけを見た場合にはわからないですね。  つまり、実意の有無という問題はどうなっているのか。自分自身が今日までおかげを頂いてきたということは薄れまして、これだけ信心をしているのにというものが出ていたのではなかろうか。信心をさせて頂くではなしに、信心してやるとなっていたのではなかろうか。故に本質的に米でなく、籾殻ということになるのではなかろうか。そういうことを感じたことがございます。

 これは亡くなられましたが、ある高徳な方の、ある学生へのみ教えでございましたが、と承っております。
「是非、欲を離れさせてください」
とお願いされたときに、
「お前が欲を離したら一体何が残る。魂の抜け殻みたいなお前しか残らないではないか。その欲をご神慮に添い奉る欲に変えていかなければならない」
と教えられた。欲を離す。悪い欲を離すのでございますね。いい欲は持たなければいけない。
 信心させて頂いているからと申しまして、魂の抜け殻みたいなことになってはならないのであり、本当に親神様が、
「よし、その願いは聞き届けてやろう」
とおっしゃるような願いを持たなければならない。そういう欲を持たなければならない。そしてお互いが、社会に国家にお役に立っていかなければならない。また教団のためにもなっていかなければならない。そのように思わせて頂くのでございます。
 教祖の神が、
『実意をもって願え。何なりとおかげを受けさせる』
と仰せになっておられる。真一心の信心をしていけば運命が変わるというおかげが受けられるのでございます。自分の不平、不足の本質をよく見まして、改まるところは改まり、これからのおかげを受けさせて頂かなければならない。そのように思わせて頂くのでございます。
 『神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと』