山崎政穂教話集 第二集 実意をもって願え

実意をもって願え

 どなたもよくご参拝になりました。
 教祖金光大神様へのお礼のお祭りを仕えさせて頂いたつもりなのでございます。祭りというものあるいは信心というものは、すべて神様目当てのところがあらねばならないのでございますが、そこのところが明確でございませんと信心というものに命がかよわない。そういうことが言えるかと思うのでございます。
 前回、実意の現れ方ということにつきまして、ある方の例を出させて頂いたのでございますが、あの方の場合はあのような事情の現れ方、その時あるいは事情によりまして、現れ方は一人ひとり変わってくるのかと思うのでございます。
 『実意をもって願え』
その実意こそ、実はお互いが運命の転換のおかげを頂く上の鍵でございます。その鍵なくしてはおかげが受けられない。お互いが、いろいろと災難、難しい問題に出遭う。一生のうちにはいろいろとございます。

 雑草は、踏まれても踏まれても芽を吹き出していく。雑草という名の草はないそうでございます。一つ一つに名があるそうでございますが、名前を一つ一つ存じませんので大雑把に雑草という言葉を使っております。大地に根をおろしているから、命があるのであり、人間が災難に遭いましても、どのような状況になりましても、力強くおかげを受けていくには、天地にお互いの命が根をおろしておかなければならない。天地あっての人の命ですね。人間であると申しましても、国全体が飢餓(きが)状態に陥っていくようなことがもし起こりますと、ほとんど秩序のない状態になる。人間でありますと口では言っておりますが、天地の恵みを頂いているから、人間でありますという顔ができる。水がなくなりましてもそうですね。顔を洗うこともできない。身体を清めることもできない。炊事もできない。そういうところに、人間が人間としていくことができないことはもちろんのこと、命すら危なくなってくる。
 前に話をさせて頂きましたが、筑紫中央高校の二年の方で、髪の毛が高校二年まで生えないという理由で学校を辞めたいと言われる方が、藤渡さんのお手引きで参拝されましたが、そのときに水の恩の話をさせて頂いたのでございます。髪の毛が生えなくて恥ずかしい。今ならかつらがありますね。そのときに、
「人間が人間として生きられているもとは、まずお水が一つそこにあり、食物があり、着物があり、つまり、天地のお恵みがありましての人の命であることを思うと、毎日一度は(二日市の紫の方でございましたが、その当時まだ井戸でございますが)顔を洗わせて頂くときに井戸に向かってお礼を申さなければいけません」
と申しました。高校二年生と申しますと十七歳くらいでございますか、生まれてその間髪の毛が生えなかったのでございます。それが、お水のお礼を申し上げて三日目に生え始めてきた。
 天地のお恵みに生かされているという命のもとを、お互いがはっきりと認識いたさねばなりません。一切の苦労も、命を頂いているからあるのでございます。お互いの命が天地に根をおろせば、ちょっとやそっとの災難には、踏まれて枯れるということはない。
 そして、命を頂いているから、そこから教育の問題も、十三日から県立高校の入試が始まりますが、入試の問題も起こってくるのでございます。子どもの幸せを祈って学校にも行ってもらうのでございますが、その前にお互いが、天地のお徳に、神様に充分にお礼申さなければならない。しかし往々にして、そこが抜きになっての教育の願いになっていく。その場におけるところの実意というものは、そこから始まってこなければならないのに、そこを抜きにしまして、学校さえやればよかろうと。でございますから、行っても人間が神様のご気感にかなうような行き方にはならない。幸せになってもらいたいと思って学校にも行ってもらうが、そのことがおかげになってこない。

 また、別な立場におきまして、子どものときに親の願いで、ない命をおかげ受けるというような場合が多々あるのでございますが、子どもにしてみれば、自分がお願いして、自分が信心しておかげを受けたのではございませんから、神有り難しの一念は生まれてこない。
 二年間血の道で苦しんでいた方がおかげを受け、喜んでお参りして来たときに、教祖の神が、
『有り難いか』
とお聞きになられた。有り難いのは当たり前ですね。けれども、教祖は『有り難いか』と念を押しておられる。そして、
『辛かったことと、今おかげを受けて有り難いことと、その二つを忘れなよう。その二つを忘れさえせにゃ、その方の病気は二度と起こらぬ』
と仰せになっておられる。おかげを受けたときの有り難さというものを忘れなければ、おかげを受けないときの辛さというものを忘れなければ、終生同じ病気はさせぬと教えておられる。「忘れなければ」ですね。ところが、親の願いによりましておかげを受けても、子どもの立場におきましては、わかるはずがない。親が充分に話をしておかなければわからない。おかげを受けたときの有り難さを忘れなければと言われても子どもでございますので、子どものときですから憶えていない。
 そこで、ご理解第七十八節でございます。
『神の気感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と健康とが揃うて三代続いたら家柄一筋となって、これが神の気感にかのうたのじゃ。神の気感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切の者が死んで、身代を残して子孫を切らしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ』
『身代と人間と健康とが揃うて』と仰せられる。そうしますと、お互いが生まれてきたときに頂いたところの運命的なものを、仮に数量で表しますと、お互いの頂いてきているところの徳の総量は、仮に身代を十、人間(=子孫)を十、健康を十、合わせて三十といたしまして、ない命をおかげ蒙るというような場合、おそらく徳の総量の半分を占めるとして、そうしますと、後に残ったものは三十の半分ですから十五、身代と人間(=子孫)の部分が十五として残る。他の人が三十で行っているところを、半分で行くことになる。そうしますと、どういうわけか子孫のところがうまくいかないとか、どういうわけか経済の問題がうまくいかないとか、そういうようなことが起きてき、どうして自分は運が悪いのであろうかと考える
 あるいは、その人が本人の才覚によりまして一代に富を築いたとする。けれども、徳の総量は増えてはいないとする。徳の総量を見ての神の精算ということが、ある時期に行われるかもしれない。いつ行われるかわからない。その精算が行われたときに、財産が一瞬にしてなくなってしまう。世間に例のあることですね。たくさん例がある。

 『前々のめぐり合わせで難を受けおる』
と教えられておりますが、『前々のめぐり合わせ』は見えないところの世界なのです。今、自分が健康でないとか、経済の問題がうまくいかないとか、それは見える世界。けれども、信心はこの見えない世界と見える世界の中間に立って、見えない世界に半分は目を向けておかねば信心というものは生きてこない。今だけを見て不足ばかり言っても信心は生きてこない。何故こうあるかというところに目を向けまして、しかも、それは見えない世界、知らない世界。
 昔の人が、
『木は燃えて灰になるといえども、灰は元の木にあたわざるなり』
と。その灰を見て元の木を見るということが、『前々のめぐり合わせ』の自覚なのですね。したがって、そこには科学的に立証することができない。木は燃えて灰になるけれど灰は元の木にはならない。灰を見てどんなに分析しても、木であるということはわかっても、元の木は出てこない。そこで、お互いが灰だけを見て、理屈を言い、見えない世界のことはないと思っている。けれども、そこに灰があれば必ず燃えた元の草なり木があるのであります。このことは経済だけではございませんし、健康だけではございませんし、縁談のことも、入学試験のことも、一切あろうかと思う。そうしたお互いの定めというものを、
『実意をもって願え。おかげを受けさせる』
と仰せられるけれども、その実意というものがなかなかわからない。
 『先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すれば誰でも受けることができる。みてるということがない』
とも仰せになっておられる。信心というものは、それほど有り難いものなのですね。生きた信心になれば、それほど有り難いものであります。
 本来、神様のおかげは、その人その人の立場におきましてなさねばならないことを、させようと思っての神様のおかげであろうかと私は思う。おかげを頂く前からなさなければならないことがあるはず、そうしたことをさせようと思っての神様のご慈愛であろうかと思うのでございます。しかし、神様のご慈愛がわかりませんと、おかげを頂いても自分勝手な生き方になるということになりますと、今申しましたような徳の総量が半分になっているところで、いくら努力してもどうにもならないようなことが起きてくるのではないか。
 見えない世界の、
『前々のめぐり合わせで難を受けおる』
と金光大神が天地の親神様から頂いておられるのですから、これを信じなければ、金光教の信心の出発点がない。そこを抜きにして、おかげを受けようと思っても、受けられるものではないことを、よくわかって頂きたいと思わせて頂くのでございます。
 『神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと』