山崎政穂教話集 第一集 神様がお嫌いになるところの自己中心

神様がお嫌いになるところの自己中心

 どなたもよくご参拝になりました。教祖の神へのお礼のお祭りを仕えさせて頂いたのでございます。本日までご本部では大祭が仕えられているのでございます。

 甘木の初代が、
『あの人は本当に善い人だと、一人の人が言っても安心はならん。二人の人が言っても安心はならん。十人が十人あの人は善い人だと言っても安心はならん。神様がよしと、仰せになられない限り安心はできん』
と、そういう話をなさったことがございます。
 思うに、あの人はいい人だとお互いが思い言葉に出すとき、自分にとっていい人という場合が多いのでございます。いくらいい人であっても自分にとって悪い人のことをいい人とは言わない。すべての思いなり行動が、ともすれば自己中心のところがある。そのことが人と人との間に摩擦(まさつ)を生んでいく。自己を主張する限りにおきましては、すればするほど摩擦が大きくなってくる。
 信心させて頂く者はいつもいつも神様を念頭におき、ご神慮はどうであろうかと、お互いがいつもいつも考えておかなければならない。信心させて頂くということは、そういうところにあるかと思うのでございます。

 一軒の家の中におきましても、みんなが自己中心的に動きますと、波風が立ってくる。波風が立ってきますと、家が衰微(すいび)していく。
 家の中の中心と申しますと、やはり母親でありましょう。子どもにとりまして、やはり母親が中心であるように思える。
 熊本県の木山の先生がよく話されておりました。子どもが学校から帰って来て、「お母さんは」と一番に口にする。「お父さんは」と言う子は一人もいない。母親の機嫌がいいと、子どもの機嫌がいい、明るい。母親の機嫌が悪い、沈んでいると、その子どももやはり沈んでしまう。そういうことをいつも話されておりました。
 親と子の間柄の話でございましたが、本当に小さい子が外から帰って来て、やはり「お母さんは」と聞く。働きの面におきましては、父親が一軒の家が安定していくという上で大変重要になってきますが、子どもの側から言えば、やはりお母さん。人間の世界でございますから、いろいろな苦労、悲しいこと辛いこともありましょう。しかし、どういう事態にありましても、やはり母親は子どもの前に泰然自若(たいぜんじじゃく)としていなければならない。どんな問題がありましても明るくあらねばならない。いつも明るい太陽の如く。
 そうしますと、子どもは外で学校でどういうことがありましても、母親のところに帰って来ますと、それだけで一切が安心。非行問題、いじめ問題等が今言われておりますが、母親がそのような母親のおかげを頂きますと、いじめ問題等もなくなりましょう。小さい子でございますと、夜の夜中、真っ暗な道を行くとしましても、母親におんぶされていると安心しきっている。それが子どもの姿なのですね。安心のいくところに、よその子をいじめたりもしない、非行にも走らない。
 信心させて頂く者は、どんなに辛いことがありましても神様にお願いしいしい、家庭の中心といたしまして、泰然自若としていなくてはならない。太陽の如く明るく暖かく。物も大切でありましょう、お金も大切でありましょうが、それだけではいけない。母親の心がいる。
 永い人生には病気の問題、経済の問題、その他いろいろな問題があるかと思うのでございますが、その中で妻たる人、母たる人がやはりしっかり家の中心としていなければいけないと、そのように思わせて頂くのでございます。そういう中でも、家族の一人ひとりが自己中心の動き方をしますとバラバラになってしまう。仲良くいけなくなるということですね。

 自己中心というものが、信心におきましては極度に嫌われていくところの、神様がお嫌いになるところの一つだと思うのでございます。事に当たりまして、いつもいつも神様を念頭に置いておく。自己中心であるというところに、自己中心の行動から、『前々のめぐり合わせで難を受けおる』という、前々のめぐり合わせのもとが生まれてくる。問題に当たりましてお願いしていきますときに、事柄は一つ一つ違いましょうが、抽象的に言いますと神様のご気感にかなわないところがある。
 いつもいつも四代前辺りにその問題の種がある。四代より前のことはほとんど問題にならない。ならないけれども、四代前に何故そのことが起きたかということを追求してまいりますと、更に三代前、四代前に同じことが起きている。
としますと、お互いが三代の間、神様のご気感にかなわないようなことをせずにおれば、めぐりのお取り払いは頂けると、頂けたということになるのではないかと思うのでございます。
 ご理解七十八節に、
『神の気感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とが揃うて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の気感にかのうたのじゃ。神の気感にかなわぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ』
と、親神様から頂いておられるのであります。
『三代続いたら』
と仰せられる。とするなら、神様のご気感にかなわぬことを三代続いてせずにいけたら、めぐりのお取り払いが頂けるということであります。

 日々お互いが知らず知らずに話している、知らず知らずの行動、それが人を傷つけている場合もある。人の信心を落としていく場合もある。愚痴、不足は非常に伝染性を持っており、その言葉が言葉の中身が次から次に人に移って行く。喜びよりも不足の方が伝染していくようであります。
 昔は言霊学(ことだまがく)ですか。神道において「言葉の魂の働き」ということが言われておりました。
 言葉というものが、悪いことを話すと悪いことは人に伝染していく。人の悪口等、一遍に次から次に伝染していく。本当であってもいけないことで、間違いでございますとまったく人を殺してしまうことがございます。
 日々お互いがご神慮に添い奉るようにと、心の中に秘めておきまして、一日一日を過ごさせて頂くことが信心生活であろうかと思わせて頂くのでございます。
 『神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じこと』